「なんでもインターネットでできるようになるんだよー。」
「すごいねー。」
こうしたせりふを聞くのも久しいですね。
インターネットにつなぐことで使える機能、オンライン・アプリケーションというサービスが、自然と身近なパソコンにも入っています。
最近のケータイでは、ニュース速報や天気が自然と画面に出てきますし、
Windows Vistaのサイドバーにあるオンラインガジェット とか、
yahoo!ウィジェットでは株価やgoogleマップ、検索といったことがIE(インターネットエクスプローラ)を起動せずにできます。
こうした機能はネットで流れている情報を活用するもののため、受動的に慣れていきやすいですが、
今まではネットではしていなかったことをネットで解決すること、どこまであなた的にはOKですか?
こういうサービスが徐々に徐々にでてきています。
「今までネットではしていなくて、これをネットでする」
たとえば、ワードやエクセル、こういったおなじみのソフトをインターネットブラウザから行なうことです。
先日、写真加工を行なう人の間ではおなじみのAdobe(アドビ)が、Photoshopのオンライン版を出しました。つまり、高いソフトを購入せずに、
そのホームページにアクセスすれば同じような機能が使える、ということです。
パソコンに保存してある写真をこのホームページに送信して、表示された写真をインターネットエクスプローラなどのホームページ上で加工するというものです。
今までも似たようなオンラインサービスはでていて、PicnikだとかPicasaなど写真を加工できるホームページはありました。
けれどその筋の大御所であるアドビがそういうサービスを出す、というところに意味があるきがします。
googleがgoogleドキュメントとして、ワープロや表計算が同じようにネット上でできるものをだしています。
いろいろそうしたサービスはどんどんと出てきますが、実際みなさんは使いますか?
オンラインサービスに日本人が受動的な理由のうちの二つ
1.格差社会?
インターネットの世界はワールドワイドだからどんどんと垣根がなくなる、といわれますが、
そうはいっても今まで育んできた習慣の違いというのは否めなくて、
こういうちょっとしたことにも対応が国民的に違ってきてるのではと。なんとなく手元でやっていなかったら不安がある、とか、
セキュリティ的に大丈夫だろうか、とか、
いろいろとまず気にかかるものです。日本は比較的、高機能のパソコンを家庭でまたは個人で所有しているケースが多いですが、アメリカやヨーロッパでさえ、比較すればそこまでとはいえないくらい格差があります。
アジアの他の国々ではさらにです。
高いソフトを買うなんて、会社であってもまた別の話です。そのため、諸外国ではネットカフェの存在感は強いです。
家にはパソコンないので、1時間幾らのネットカフェでやってしまおうと。
みんなが使っている、保存のできない共有するパソコンで。そんな環境であれば、無料でオンラインでやりきれるのであれば、使ってみよう、
というのが自然な流れな気がします。
2.「共有」というものの見方
あげてみればもう一つ。
最初iPodに写真を見られる機能がついたとき、日米の差を感じました。
家族や旅行の写真の扱い方です。
わざわざ持ち出してまで写真を見る、または見せるということがありなのかと。アメリカ人の家に行ったとき、家族での写真や夫婦の写真、いっぱい飾ってあったり、
食事をしているとき「これはオレのワイフだよ」と財布に入った奥さんの写真を見せられたりという状況に出くわしたことがあるかもしれません。いまでこそそうした習慣を持つワカイひとも増えてますが、一昔前までは飾ってある写真は代々のおじいちゃんの遺影とか、そういうところでした。
そうしたアメリカとかであれば、すでにそういう習慣があったので、iPodで写真を「見せる」ということにはスイッチしやすかったはずです。
最近では写真を不特定多数のみんなに見せるためのサイト、flickrなどが人気ですしね。
欧米は個人社会だといわれますが、この「個」と「個」のつながり方が日本と違いますね。こういう、「共有」という考え方がちょっと温度差があるので、オンラインでのサービスはなかなか浸透するのに時間がかかるのでは、という気がします。
いままでやってた習慣を「きりかえる」ことと、新しい習慣を「とりいれる」のでは差があるなあ、という話です。
とはいえそれぞれの地域や国に差があってこその世の中なのでそれでいいかもしれないですが、新しいことが好きな人はぜひぜひ試してみてください。
私も(ひまを作って)やってみます。